写真の意味は、受け取る側の思いで生まれる
僕はあまり多くの写真を撮らなくて、写真を撮らない写真家と名乗っています。3年前に南米エクアドルに1年間いて、昨年はそこで個展もしてきました。作品は鹿児島で撮影したもので、オルタナティブというタイトルです。言葉それ自体の意味としては「代替物」などの意味があります。(R3)は、影の方が生えてる草より生々しく感じて撮りました。
写真というものはそこに存在するものしか撮れませんが、その存在するもの、それから見えるもの、感じるものとの空間性をいつも意識しているんです。撮影して面白く感じるのは、写真に写っているものから、さらに広がりが発見することができることです。
南米に行ってましたが、旅行先でも記念写真さえ撮らないのです。ではなぜ今回、鹿児島で撮影したかと言うと、4年前にエクアドルに一年いて、一枚も撮らないで過ごしましたが、ところが去年、エクアドルの風景が心にブアッと現れて、それが鹿児島だったのです。もしかしたらそれはエクアドルと一緒かも知れないとも感じました。
南米的な日射しとか、生物のヒストリーなどを意識してます。よく人にどう見たらいいのかと訊かれるんですが、撮ってる本人としては好きに見て欲しいと思ってます。(R5)は線路沿いのコンクリートの普通の壁です。実は、この写真をエルサルバドルというところで見てくれた人が気づいてくれたんですが、この壁が排水口は月に見えるんです。苔と壁の傷は過去のモノで、別にこの壁を表現したかったわけでも、風景を表現したかったわけでもない。撮ったあとに気づいたことですが、今、言ったことが事実でもなく、一つの一例で、そのように自分の中でのストーリーを探してみるといいと思う。写真に自分の想像を膨らませてみると発見があると思います。
写真はイメージそのもので、例えばペットボトルを撮ればそれはペットボトルとして見える。しかし、それをあえて見えてるモノから意識のインパクトを外す。例えば、どうしてそこにペットボトルがあるのか?なんてことに思いめぐらすとすごく面白いと思う。その瞬間とか、周りにあるストーリーを探すってこと。写真って別に撮らなくていいわけで、でも撮ったなら、その意味は受け取る側が思いを巡らせば意味があり、巡らせなければ意味はないという。撮影者の気持ちも大切ですが、カメラがそこにあったという事実から何を考えられるか。ニクさんの露出時間が5分間なら、その5分間にそこで何があったか、想像するとたくさんのことが広がっていくのはとても面白いですよね。
コジノリョウ(本名 谷山亮)氏プロフィール 1977年 鹿児島に生まれる。2000年 art session jr展(Oriental Gallery・鹿児島)。ゲリラ展 村上春樹「TVピープル」を読んでの読書感想発表会(天文館アーケード・鹿児島)。2000年 TOIRO展に参加。2004年 zamza.net結成。2005年KTSナマイキVOICEアートマーケット藤浩志賞。2006年KTSナマイキVOICEアートマーケット高嶺格賞。個展「脱走のための序奏(題名・高岡修の詩より)」(cafe風の丘)。渚のアート展を企画(東市来・吹上町)。「オルタナティブ」がart walker vol4にて掲載2008年 グループ展「この指トマレ」展(中南米エルサルバドル)
シンポジウム
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