「光が刻む鹿児島」高岡修
高岡 修(詩人)
もう十年以上も前のことだが、
ひとりの写真家の言葉によって、
写真というものの真髄に触れたような思いをしたことがある。
そのとき彼はこう言ったのだ。
――そこに何があるかわからないから写真を撮る――と。
もちろん、写真を撮ったからといって、
そこに何が在るのかわかりはしない。
しかし、その一枚の写真から
何かが確実に開始されるのである。
そして今回、私は
「日本に向けられたヨーロッパ人の眼・ジャパン・トゥデイ」
と題された写真展において、
写真に関するもうひとつの思想の具現に出会うことができた。
写真の英語訳「フォトグラフィ」の語源は
「フォトン」と「グラフ」である。
それは「光が刻む」という意味である。
今回のヨーロッパの三人の写真家の作品には、
その語源からくる思想が、
さまざまな形で現前しているように思われたのである。
その現前がもっとも顕著であった作家が
ニク・イルフォヴァーヌ(ルーマニア)であった。
彼は、あえてピントを制御できない
百年ほど前のワンボックスカメラを使用し、
しかも五分以上の露出でもって各地の風景を撮影した。
その帰結として、そこに写し出されたのは
むしろ「時間」というものであった。
桜島港の作品では、
被写体であるフェリー自体は消え、光跡だけが写っている。
指宿の知林ヶ島の作品では、その七分ほどの露出時間に、
打ち寄せては引いたであろうおびただしい波の痕跡が、
時間の集積とともにけぶっている。
写真とは、そこに流れる時間を瞬時に切断し、
その過去と未来を見えざる光景として接続するものだが、
彼は、写真の中にこそ固有の時間を内包する。
写真展の前に開催されたセミナーとシンポジウムにおいて、
彼はしきりに作品のストーリー性について語ったが、
ストーリーとは「時間」そのものにほかならない。
そのストーリーを一瞬の匿名性に発見しようとするのが
スティーブン・ギル(イギリス)である。
日常にあって埋没している一点を、
彼はみずからの肉眼と化したカメラで撮る。
そのために彼が必要としたのは、
29万7189という膨大な歩数だった。
現代社会にあって、私たちの肉眼は、
「見る」という行為に慣れ過ぎ、
「見る」という情動に疲れきっている。
それゆえに私たちは、
本当はもう何も見ていないに等しいのだ。
そういった意味においても、
これまで日本に一度も来たことがないヨーロッパの写真家による
真新しい眼での県内作品群は、
私たちにもう一度「見る」とは
どういう行為であったのかを再考させる。
その「見る」という本来的な行為の「みずみずしい視線」のみを
ひたすら撮りつづけているのが女性の写真家
クニー・ヤンセン(オランダ)である。
混沌とした現代社会にあって「みずみずしい視線」を
有しえているのは子供たちだけであり、
あるいは名もない植物群だけである。
彼女が優れているのは、
名もない植物群が有している視線と同じレベルで
子供たちの視線を撮り得ているということである。
そのために今回彼女が選んだ場所は奄美大島であった。
ところで、クニー・ヤンセンの写真を前にして気づかされたのは、
本当に見つめられているのは、
「写真を見ているこの私自身である」
というまぎれもない事実だった。
あえて思想性を全的に排除したかにみえる
彼女の作品が私たちに問うているのは、
生きて在るということに対する
私たちの本来的な純粋性なのだ。
プロフィール
高岡 修(たかおか おさむ)
詩人・俳人。
1948年9月17日、愛媛県宇和島市生まれ。
1962年、鹿児島市に移住。十代の頃より詩・俳句・小説を書き始める。
1968年、現代俳句誌「形象」に参加、最年少同人となる。前原東作・岩尾美義に師事。
1970年、国立鹿児島高専電気工学科中退。
1990年、詩集「二十項目の分類のためのエスキス・ほか」にて第18回南日本文学賞受賞。
1991年、「形象」復刊と同時に、編集長となる。
1994年、前原東作死去により、「形象」主幹となる。
2001年、「現代鹿児島短歌大系」の編纂により第27回南日本出版 文化賞受賞。
2005年、詩集「犀」にて第46回土井晩翠賞受賞。
2007年、第27回現代俳句評論賞受賞。
著作として「水の木」など11冊の詩集、「高岡修全詩集」、「幻象学」、「蝶の髪」の句集がある。
近刊として「現代詩文庫高岡修詩集」(思潮社)が予定されている。
現在、現代俳句協会会員・日本現代詩人会会員・鹿児島県詩人協会会長
鹿児島県現代俳句協会副会長・現代俳句誌「形象」主幹
詩誌「歴程」同人。出版社ジャプランを経営
〒890-0056 鹿児島市下荒田1-17-7 ジャプラン内
電話:099-251-3783 FAX:099-251-0735
プロフィール