写真展 European Eyes on Japan / Japan Today vol.9 プレイベント:シンポジウム

第一部は、ヨーロッパの写真家と鹿児島在住の写真家が撮影した、それぞれの「鹿児島」の写真を、本人から着眼点や魅力などの解説とともに見る。第二部は、見た写真をもとに、会場から感想を述べてもらったり、質問を受けながら、各写真家からいろいろな思いを語ってもらい、意見交換して、写真の面白さを発見するトーク&ディスカッション。コーディネーターに地元紙に連載をお持ちの鹿児島在住アメリカ人、ジェフリー氏を迎え、国際色豊かなイベントになりました。

コーディネーター
ジェフリー・アイリッシュ氏 (執筆業、民俗学研究、翻訳・通訳業)1960年米国カリフォルニア州生まれ。1982年エール大学を卒業後、清水建設に入社。20代をサラリーマンとして過ごし、30代より下甑島で定置網の仕事に付き、その後ハーバード大学大学院で民俗学を専攻。1998年より鹿児島県川辺町の牧場の見張り小屋に移り住み、現在は執筆活動を中心に、地域活動や環境問題などに取り組む。現在、南日本新聞に日々の生活や田舎暮らしなどを綴った「ジェフリーのいなか学」を連載中(第四日曜日)。著書に「ジェフリーの小組合長日記」「里山の晴れた日」「アイランド・ライフ、海を渡って漁師になる」など。

コンテンツ

■プレゼンテーション
ニク・イルフォヴァーヌ氏
川上芳明氏
スティーブン・ギル氏
コジノリョウ氏

■第2部ディスカッション

純粋な伝統と先端技術を併せ持つ国。それが僕の日本へのイメージでした。そこで用意したのが小さくて形も素朴な80年前のカメラです。そして出力はハイテクのデジタルプリンター。つまりカメラは伝統的なもので、プリンターは先端技術という日本のイメージに合わせたわけです。

さすがにここまで古いカメラですと技術的に思ったような撮影はできません。しかし逆に思い通りにならないところに私は価値を見いだしました。「ミステイク」という言葉がありますが、これはミスとテイクに分けられます。この言葉を日本語にすると「間違い」で、これも「間」と「違い」に分けられます。僕は写真を撮るという行為において、空間的、時間的な「間」とギャップ、つまり「違い」に興味があるんです。

今回使用したカメラは長い露光時間が必要です。N3の写真は露光が約5分。小さな島は知林が島。潮が満ちてきてるときの写真です。三脚にカメラをセットして、どんどん海水が迫ってきたので、僕は逃げてカメラに仕事を任せました。一番下に影が二つ映っています。ひとつは僕の影で、もうひとつはカメラの影です。結果として一枚の写真にいろんなストーリーが刻まれることになりました。

また、写真というものは仕上がりの平面イメージになると被写体が抽象的でも現実的なものになります。今回、桜島の姿に惹かれてよく撮ったのですが、桜島の存在自体を意識して写真を撮り、仕上がりは僕の感じた色で表現しています。でも、もしかしたら色は僕が自分の国から持ってきたのかも知れない。去年、初めて鹿児島に来て、ほとんど田舎を回りましたが、自分の家に来たみたいな感覚でした。日本語を話せなくても十分人と通じ合えたのですが、はたして僕の桜島は皆さんの感じている鹿児島の色とのギャップはあったのでしょうか?

撮影はいろいろ事前に研究してきますが、実際に撮るときはそれは一切忘れて、まったく自由な自分に戻っています。この80年前のカメラの宣伝文句は、子供のために技術を意識しないで写真を撮る喜びを味わおうというものです。そういう内面的なことが大事ですね。

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私は鹿児島に在住して写真を撮っています。海外の方から見ればもしかしたら新鮮な風景も、私たちは普段いつも見慣れてる当たり前な風景なので、ついつい見過ごしてしまいがちなように思います。でも、たまには身近な風景を自分の視点で切り取ってみたいという衝動にかられるときがあります。

昨年の11月のある寒い日、私は秋を撮りにいこうと思い立って、近くのテンパークへ行って15分くらい一心に撮影をしました。私は基本的にテーマを決めて撮るときは、広い画角では撮らず、あるところを切り取って撮ることがほとんどです。少し曇っており、公園には人がたくさんいましたが、なるべく人をいれずに公園の空気だけを撮ろうと思ってシャッターを切りました。ひとつのテーマで撮るときは、普段の何気なく撮る作品とはかなり違ったものになりますね。

普段の仕事では、お客さまから依頼されて撮る写真が多いですが、自分が自由にカメラを構えるときは、そこの空気感をなんとか表現したいという感じで撮っています。何気なく街をあるいてるときや、お店の中など、常に気になったときに撮ったりすることもしていますが、そこに見えているモノよりそこの雰囲気を収められたらと思います。 川上芳明氏プロフィール
1962年 鹿児島県生まれ
1988年 建築写真事務所 勤務 
1991年 広告写真スタジオ 勤務
1992年 営業写真館に勤務して、スタジオでの記念撮影や
    学校アルバムの制作にたずさわる。
1999年 フリーランスとして、家族の肖像写真のあり方を
    突き詰めながら現在に至る。

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一年半ほど前に初めて日本に来て鹿児島の撮影をしました。あまりに新鮮さに溢れててて、とてもビジュアルな街に見えました。イギリスでは大抵、テーマを絞って撮るのですが、今回はかなり広い範囲を歩いて、自由に感じたものを撮りました。とくに興味を惹いたのは仕事も休んでるところも含めた日常生活でした。

(S1)は、志布志のスーパーの外で、写真撮ってもいいですか?と聞いたときのリアクションの写真です。 撮ったときには分からない、あとから分かるところ、それが生活ぶりのヒントとなるところが面白いですね。

(S2)は、鹿児島市内でパレード見てるおじさんで、僕の背中では大勢の人が行き来してるんです。賑やかさの反対側を見てみる。自分の本能と反対を撮ることで、写真はモノを反対にしたり裏側が見えるのが面白いと思うんです。ガイドブックを見てしまうとある意味、カメラを向ける場所を指示されてる感じですが、それは自分の感覚に従ったことではなく、ホントの自分の感覚は別のところにあるんじゃないかと思うんです。事前の日本の情報を集めると、桜が咲き誇り、鯉が泳いでるとか、そういう先入観が出来上がってしまいますが、それとは違うところに惹かれます。

写真を撮りながら、自分がイメージした日本と実際の日本の間を探していきました。それはたぶん日本人がロンドンに来て、バッキンガム宮殿やビッグベンや二階建てバスの写真を撮ると思うのですが、実際のロンドンという街は全く別の場所にあるのと一緒だと思ったからです。

(S3)は、祭りの日に宝くじ売り場の女性。写真家が街の写真を撮るときに、大抵、本人は全く存在してないように偶然のものとして現そうとしますが、実際には写真を撮られる意識や写真家もそこに存在してるわけです。ですからこの写真では、それも見える写真を撮ったということです。良く見ると右に私が映り込んでますよ。人のポートレイトを撮るということは、撮る人、撮られる人がコミュニケーションし、協力し合ってることで、作品はコラボレーションであることをこの写真では現してます。(S4)は、志布志の交差点で信号が赤に変わる度に撮った写真ですが、これも同じことが言えますね。

(S5)は、仕事中のところカメラを向けたので、ちょっと中断してるところです。ロンドンもそうですが、鹿児島でも街の現場を動かす人の姿に興味があって、掃除や電気修理や道路工事など、街を支える人たちが面白い。

(S6)は、10分前にこのおじさんと出会って、言葉も分からないまま、ここに連れてこられて、撮る位置やとる場所、ポーズまでおじさんが決めた写真です。

(S7)は、サボテンが嬉しそうな姿に見えますね。(S8)は、志布志のジョイフルで、男の子の孫がトイレに行ってるところです。こういう何気ない一瞬が面白い。

人がナニカに取り組んでいるというのがテーマとして好きです。(S9)の、ジャケットがかかってるだけのこの写真も、これでそこに、そいいうことをした人がいることがわかるし、こういう細かいディティールの表現が好きです。

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僕はあまり多くの写真を撮らなくて、写真を撮らない写真家と名乗っています。3年前に南米エクアドルに1年間いて、昨年はそこで個展もしてきました。作品は鹿児島で撮影したもので、オルタナティブというタイトルです。言葉それ自体の意味としては「代替物」などの意味があります。(R3)は、影の方が生えてる草より生々しく感じて撮りました。

写真というものはそこに存在するものしか撮れませんが、その存在するもの、それから見えるもの、感じるものとの空間性をいつも意識しているんです。撮影して面白く感じるのは、写真に写っているものから、さらに広がりが発見することができることです。

南米に行ってましたが、旅行先でも記念写真さえ撮らないのです。ではなぜ今回、鹿児島で撮影したかと言うと、4年前にエクアドルに一年いて、一枚も撮らないで過ごしましたが、ところが去年、エクアドルの風景が心にブアッと現れて、それが鹿児島だったのです。もしかしたらそれはエクアドルと一緒かも知れないとも感じました。

南米的な日射しとか、生物のヒストリーなどを意識してます。よく人にどう見たらいいのかと訊かれるんですが、撮ってる本人としては好きに見て欲しいと思ってます。(R5)は線路沿いのコンクリートの普通の壁です。実は、この写真をエルサルバドルというところで見てくれた人が気づいてくれたんですが、この壁が排水口は月に見えるんです。苔と壁の傷は過去のモノで、別にこの壁を表現したかったわけでも、風景を表現したかったわけでもない。撮ったあとに気づいたことですが、今、言ったことが事実でもなく、一つの一例で、そのように自分の中でのストーリーを探してみるといいと思う。写真に自分の想像を膨らませてみると発見があると思います。

写真はイメージそのもので、例えばペットボトルを撮ればそれはペットボトルとして見える。しかし、それをあえて見えてるモノから意識のインパクトを外す。例えば、どうしてそこにペットボトルがあるのか?なんてことに思いめぐらすとすごく面白いと思う。その瞬間とか、周りにあるストーリーを探すってこと。写真って別に撮らなくていいわけで、でも撮ったなら、その意味は受け取る側が思いを巡らせば意味があり、巡らせなければ意味はないという。撮影者の気持ちも大切ですが、カメラがそこにあったという事実から何を考えられるか。ニクさんの露出時間が5分間なら、その5分間にそこで何があったか、想像するとたくさんのことが広がっていくのはとても面白いですよね。

コジノリョウ(本名 谷山亮)氏プロフィール 1977年 鹿児島に生まれる。2000年 art session jr展(Oriental Gallery・鹿児島)。ゲリラ展 村上春樹「TVピープル」を読んでの読書感想発表会(天文館アーケード・鹿児島)。2000年 TOIRO展に参加。2004年 zamza.net結成。2005年KTSナマイキVOICEアートマーケット藤浩志賞。2006年KTSナマイキVOICEアートマーケット高嶺格賞。個展「脱走のための序奏(題名・高岡修の詩より)」(cafe風の丘)。渚のアート展を企画(東市来・吹上町)。「オルタナティブ」がart walker vol4にて掲載2008年 グループ展「この指トマレ」展(中南米エルサルバドル)

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質問1 プロの写真家は見る者に感動してもらいたいと思って撮ってるのでしょうか?

スティーブン どう見られるかは全く考えてません。相手の為に撮ると絶対に失敗します。自分のために、それが流行じゃなくても、そこにいることが寂しくても、自分のために作ります。

ニク エゴイズムではなく。それは何かをあげている気持ちです。自分のことは考えてません。相手を何か意味のあることを差し上げる気持ちです。美術の世界ではホントのプロの心はアマチュアです。それはイタリア語では、アマールという愛するという言葉からきてます。写真を撮ることは、気を弛ませることが大切で、遊ぶことで無意識に入れるということで、自転車に乗るときは、最初に覚えた自転車に乗る技術を一切忘れて漕いでますよね。向かってる目標に無意識に向いてる。写真もやっていきますと、最初に学んだことの反対のことさえもするようになります。

川上 作品を作るにおいては、主観で撮ってますから、見る側のことは考えません。ただお客さまから依頼されるときは、どういう風に写真を使うかを考えて撮りますね。マチュアの感覚がプロ。

コジノ 全部、人にみられるとか、何を撮ってるのかさえも覚えてないです。真っ白な状態まで自分をもっていきますし、全て、息をするのも忘れる感じ。人に見られることは意識してないかというとそうではなくて、作品は個人で完結することじゃなくて、僕が作品でやってることは、写真があればそれと人なので、それは作品と作家ではなく、作品があるということは同時に人も存在するということだと思ってます。

質問2 (ニク氏の作品に対して〈プレゼンN5を参照〉)この作品の手はなんでしょう?

ニク これは僕の手です。実は偶然この手が入ってしまったのが以前にあって、それから時折この手法を使ってます。ときには太陽の光を遮るために手をおくときもありますが、今は、ほとんど構成上のこの手を入れてます。自分の存在を写真に入れた気持ちです。自分の気持ちとしては桜島を自分が掴もうとしたんです。手の形でも人の識別ができます。18世紀には顔の影だけのポートレイトもあるのですが、ここでは手のポートレイトという意味もあります。

質問3 写真を撮ってるときにランニングハイのように忘我の状態になったりするかも知れませんが、良い作品はそんな状態のときに撮ったものなのか?それともまだ気持ちが乗ってないときに撮ったものなのか?

コジノ あんまりランニングハイは好きじゃないので、あまり興奮しませんね。

川上 被写体によってテンションがあがるときもありますが、自然が対象の場合はテンションは上がらずそれこそ自然体。人物の場合はけっこうテンションが上がります。撮ってるときに出来上がりのイメージができますが、それがいいとは限らなく、また改めて冷静に撮ったりします。だからどちらとも言えない。

スティーヴン ハイというより精神集中。それは周りの音が聞こえなくなるほど集中し、息をひそめる感じですね。ハイよりもむしろロウです。

ニク 5分間もの時間ですから、ハイの持続ってことはないです。

質問4 ニクさんは鹿児島の色にもしかしたら自分が持ってきたのかも知れないと言ってましたが、それはどういうことなのでしょう?

ニク 光というか色は東西ではあまり変わらないが、南北では大きく変わるように思います。私の場合、撮影後のプリント処理でいろいろ手を加えますので、色は自分の主観に負うところが多いのです。それで、往々にしてホントにここで撮った色はこの色なのか、それとも自分が持ち込んだ色なのかという疑問が自分で起こってきたりするのです。友だちは、今回の写真を見せたところ、この写真はどこでも撮られた可能性があると言ってました。私は13歳から10年間はほとんど白黒で写真を撮りました。一番好きな写真集は他人の白黒の写真集です。今はほとんどカラーで撮ってますが、ときには白黒も内容によっては用います。どちらにしても感情を表すということが大事です。以前、写真を撮り始めた友だちに白黒フィルムをあげました。2ヶ月して友だちの写真をみせてもらったら、その中に白黒の写真があってとてもそれが変わっててていい感じだったんです。それでこの写真はどこで、どうやって撮ったのか聞きました。すると彼は私があげたフィルムはカラーと勘違いしていて、カラーのつもりで撮影して、現像もカラー処理してたのでした。

コジノ 色は今回気になってました。僕は色は情報でしかないと思っていて、なるべく色は外してます。鹿児島の色は、海外で感じるのは、色というよりは光の強さの程度かなと思う。晴天の日と曇りでは赤が違う。色が違うってのは光が違うってことかなと。鹿児島の夏は光が痛い。

川上 色というものは自分を通して感じるものですよね。ですから一人一人の脳で感じている。だからそれぞれが感じている色は微妙に違いがあると思う。だから自分で表現したい青を用いても、それを他の人が見て感じるのは、制作者の青じゃないかも知れない。ですから色はあくまでもイメージとして脳のひとつの情報だと思う。自分でも白黒の写真が好きなんですけど、撮るのはほとんどがカラーです。8年くらい前まではほとんどモノクロでした。

質問5 僕は今、絵を勉強してるんだけど、ニクさんのポスターの写真は鹿児島の色をすごく表現してると思う。桜島が描かれている絵画がよく見るのですが、長年鹿児島で絵を描かれてる方々は、自分の感覚で色を使ってますが、それにこの写真は近い気がするんです。ただ、ほかの写真などを見ると、そうでもないと思うので、ルーマニアから持ってきた色もあるのかなと感じました。

早川(司会) 写真というモノは、撮る人の何かの感情が入るものなんだとジョイフルの中国人に見える写真で思いました。カラーというだけじゃくて、全体にオーラがかかってるような気がしました。

スティーブン 感情が写真に現れるということ、また好きなものを撮ったり、嫌いなものを撮ったりして、自分のその日の気分が写真に現れるところが興味深いところで、ニクさんは自分の国から色を持ってきたと言っていた。映画をみんなで見に行くけど、見終わってのそれぞれの抱いた色が違うんです。スティーブンの写真に出てた色は鹿児島の色だと思う。

質問6 コジノさんは中南米を回ってて、写真家だけど写真を撮らなかったのはなぜだったのですか?また、鹿児島でエクアドルを撮ったというのはどういうことですか?

コジノ エクアドルから帰国して撮ったのが今日みていただいたオルタナティブという写真シリーズになります。実は現地では確かに写真を撮りたい衝動はあったので撮ったのです。だけど仕上がりが自分のイメージしたものと大きなズレがあったので、がっかりしてその凹んだまま日々が過ぎたのでした。鹿児島でエクアドルを撮ったという意味は、僕の中でエクアドルを理解できたというのが4年かかったということなんだと思うんです。行ってすぐその国を理解できなくて、多くの人と会って、いろんな感情を理解して初めて僕は撮れるんです。それが消化できたのが鹿児島に帰ってきてからだったんです。

質問7 どうして写真家になったんですか?

川上 好きだからです。趣味で終わらせたくなかった。父も写真が趣味で、家に暗室があって、カメラがそこらに転がっている。自分ではおもちゃのように撮ってたんです。



コジノ 楽だから。デッサンとか音楽とかいろいろ模索してた時期があったんですが、単純にその人を見て、その人を表現するのに絵や音楽だとかなりの手順が必要です。でも写真は押せば撮れるのでいいです。

スティーブン 最初は趣味でした。今は趣味でもあり、仕事でもあります。どこかで写真を撮ることから逃げようともしてきたのですが、写真を撮る人生が自分を追っかけてきた、そんな気持ちでいます。写真撮ることでいただくことが多く、学ぶこともすごく多い。音楽が好きで、音楽が作れるならそれをやりたいが、写真を撮るということはそれに一番近いと感じてます。

ニク 私の家族はみんなアーティストです。それで私も学校の成績ではお医者さんにでもなれましたがアーティストになりました。絵を描き、音楽もやりましたが、写真には一番驚きを感じました。一日何億枚写真が撮られても。まだまだ奥があると感じています。現実と限りなさの交差するところに興味があり、現実はいつか終わるものではないかということに対して写真は限りがないと感じる。現実を永遠を一緒に表現するこの組み合わせが写真を撮るということです。自分にとっては自分の中の何かを表現することができることが写真の意義です。

早川(司会) 今日はみなさん、本当にありがとうございました。

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